人気ブログランキング | 話題のタグを見る

  www.flybito.com             ふらい人のblogです。フライフィッシング関連サイトへのリンクやコメントをお待ちしています。           


by flybito
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

#5 SHIMAネット

#5 SHIMAネット_d0222836_19263585.jpg

 つるや釣具店のハンドクラフト展で見つけたランディング・ネットに惚れ込んだ。SHIMAネットというブランドだ。たぶんシマさんが作るランディング・ネットだから、シマネットなのだろうが、ぼくが連想したのは「シマドウフ」「シマラッキョウ」「シマザケ」だった。
 沖縄では名産品とおもわれる物品、もしくは沖縄固有の生物に、とりあえず「シマ」を冠する習慣がある。珍品好きな観光客がありがたがることを知っているから、なんでもかんでも「シマ」をつける。那覇の居酒屋のメニューにはきっと「シマダコ」とあるが、なんの変哲もないただのタコである。ちなみに与那国島には固有種の馬がいるけれども「シマウマ」とはいわない・・・・・・なんてことはまるでハンドクラフト展とは関係のない話なのだが、沖縄びいきのぼくがどこか固有な響きを聞き取った「シマネット」は事実、極めて個性的であり、 一流のアートであり 、かつ、しっかり遊んでいるし、そして、きっちりと魚を掬う道具に見えた。
 シマさんは、まずは従来のランディング・ネットの形状を否定することから始めている。魚を掬うネットは魚釣りのながい歴史のなかで、あのティアドロップ形に落ち着いていたはずだった。片手にロッドを持つとなると、残りの片手でネットを扱うしか方法がない。だからこそ片方の掌で握ることができる細さの柄が必要で、その先に魚のおおきさを想定したネットが取り付けられるわけだ。しかしそれにしても世にあるランディング・ネットはその掟に従順すぎて、まるで無個性がネットの形をまとっているといってしまいたいほどである。

つづきはこちらへ
# by flybito | 2011-02-19 19:23 | アウトフィット
#4 山村聰『釣りひとり』_d0222836_1843872.jpg

「トラ・トラ・トラ」以来、ぼくにとって山村聰は山本五十六でありつづけ、後年、小津安二郎が大好きになって『宗像姉妹』や『早春』を名画座で観たときは、どうにもしっくりこなかった。
 という程度の感想が山村聰のすべてであった。つい先日「釣りひとり」(二見書房)を読むまでは。
 この本は2月号からふらい人に参加される川野信之さんから薦められた。 新刊はないが、版を重ねた本なので「非常に良い」古本を手に入れることができた。 ぼくはハウスダスト・アレルギーなので、古本はよほど吟味して手に入れなくてはならないのだ。アマゾンでいえば、「良い」ではダメで「非常に良い」でなくてはならない。「可」はネットの画面で文字面を見ただけでくしゃみが出そうになる。
「釣りひとり」を読んでいる間、ぼくの口からはいちどもくしゃみが発せられることはなく、代わりになんども盛大な溜め息が出た。溜め息はおもに、失われた日本の美しい釣り場への郷愁と、山村の文章力に対してのものだった。
 この本が出版されたのは昭和49年、いまから37年前のことだが、山村が語るおおくはそのさらに前の時代のことである。山村自身は最終的にへらぶな釣りにのめり込んだが、この本にかぎっていえば、なぜか海の釣りに印象的な文章がおおい。ことに『江戸前の釣り』のなかの『青ぎすの脚立釣り』は短いながらも、全編中の白眉である。であるから、ここに全文を引用する。
 というような荒技ができるのも、21世紀のネット/デジタル世界ゆえではあるが、しかしぼくたちは、その代償として、おそらく下のような世界を失っている。

つづきはこちらへ
# by flybito | 2011-02-12 00:00 | ふらい人の書棚

#3 ふらい人の甲乙

#3 ふらい人の甲乙_d0222836_18185946.jpg

 釣り人には2種類の人種が存在している、とおもう。白人と黒人のように、簡単に見分けがつけばわかりやすいが、どちらもまぎれもない日本人だから見かけだけではわからない。でもいっしょに釣っていると、なんとなくわかってくる。
 甲種を「漁師型」、乙種を「抒情型」とぼくは呼んでいる。
 漁師型の特徴は、
「おおきな魚を、あるいは数多くの魚を、釣るために釣りをする」ことであり、
 抒情型の特徴は、
「魚釣りの周辺のすべてをひっくるめて愉しむ」ことである。
 話をフライフィッシングに絞ってみる。フライフィッシングは「魚釣りの周辺」という世界がとてつもなく広い。水生昆虫の種類や棲息環境、羽化形態などに興味を持ったあげく、釣りをしている時間より、川底の石裏を調べる時間がながくなったとき、釣り人は釣り人ではなくなり、ひとりの昆虫学者となる。
 あるいはフライロッドを操ってラインを前後させる力学そのものに魅せられてしまった釣り人。キャスティングはそれだけで一つの完結した遊びであり、釣りに行く必要などなくなってしまうのだ。あるいはフライタイイングにアートを見いだす者もいる。バンブーロッドの自作に夢中になってしまう者もいる。
 フライフィッシングはかくも無限の周辺を持つ大人の遊びである。したがってフライフィッシングをする釣り人はなべて乙種「抒情派」である、といってしまいたいところだが、しかし世の中、そうそう理屈で割り切れるものではないから困る。
 じつはふらい人のなかにも漁師型と抒情型の2種が混在しているのだ。これは一見「釣り人のマトルーシュカ人形化」のように見えるが、じつは「マトルーシュカ人形化」ではなく「コロンブスの卵化」なのであって、「ふらい人が釣り人である以上は甲種か乙種のどちらかに属する」という、論旨の出発点にもどるわけなのであるが、こんなふうに理屈ばかりをいつまでも語りつづけていても埒があかないから、話をわかりやすくする。 

つづきはこちらへ
# by flybito | 2011-02-06 00:00 | エッセイ